愛しさと切なさとエスプレッソ

パンとマンションが好きな人のブログ

宗教

高校の時、僕は勉強にも部活にも熱をあげず、当時好きだった人(中村獅童に少し似ていたからシドウとする)に情熱を注いでいた。

シドウは軽音楽部とサッカー部に所属していて、目立っていた。しかし性格は努力家で優しいという奇跡のようなありがたい存在。僕の話によく笑ってくれるところも良かった。

ある日一緒に多摩川でバーベキューをしていたら突然好きになってしまった。あれ、好きかも、と思った直後にはもう好きだった。多摩川のきらめき、電車が走り去る音、眩しいシドウ。途端にバーベキューがどうでも良くなり肉をいくつも焦がした。

 

シドウについての妄想を、授業中、休み時間などによくやった。

想像の中で何故かシドウはナイフを持った暴漢に購買部で襲われたり、屋上からスナイパーに狙われたりした。その度に僕は身を挺してシドウをかばい、命を落とした。ある時は背中にナイフを受け、銃弾を胸に受けた。

大抵の場合シドウは僕に駆け寄り「どうして」などと僕に身代わりになった理由を問うのだが、僕は愛を伝えようかどうか逡巡しながらも口を閉ざして絶命するという、映像化されたら即打ち切りになるような安い筋書きであった。

死んで愛を永遠にする、というのが僕の妄想のテーマであり、「ベルサイユのばら」のような劇的な最期を迎える事を好んだ。(書きながら高校生の自分が心配になってきた)

 

シドウが学校を休めば、僕は学校にいる意味を失い早退した。家に帰ってテレビを見たり、行き先の分からないバスに突発的に乗って暇を潰した。

シドウが何かを頑張れば、僕も心を熱くして努力をした。ただ元来努力が苦手な僕はシドウよりも努力が続かず、そんな自分を恥じた。

今思えば病的だけど、高校生なんて自意識の塊みたいなものだから、みんな何かしらの病だったのかも知れない。

 

妄想を重ねた結果、僕はシドウへの思いで心がパンクしそうになり、友人にシドウが好きな事を打ち明けた。

視聴覚室から教室へ戻る道すがら、話を聞いた友人はかなり驚いていた。僕はその驚きを見て、僕はもしかして世間からずれてるのかなと初めて思った。

男でありながら男であるシドウが好きという自覚はあった。男女の恋愛が一般的という認識もあった。ただ他の人と比べる事をしなかったためか、友人に打ち明けて初めてその点について自分を客観し、人とは違うんだと思った。

 

一般的でない好意について、シドウはどう感じるだろうか。僕はその問いについて考えるべく、妄想を変えていった。

シドウは暴漢に襲われなくなったし、僕も身代わりとなって絶命しなくなった。

その代わり僕の気持ちを知って嫌悪を感じ、拒絶するシドウを想像し始めた。

日々妄想に取り組んでいた僕にとって拒絶のパターンを考える作業は難なく進み、やがて自分の想像によって僕は心をすり減らした。

 

卒業式を終えて、僕はシドウに気持ちを伝えようとメールをした。直接、誰にも聞かれない場所で言わないといけないと思った。

シドウの家は引っ越したばかりだった。2階の部屋に向かう途中で僕は「新築の匂いだね。塗料の匂いがする。」とかなんとか言いながら階段を上った。どうでもいい事を敢えて言うほどに、実は怯えていたのだ。

シドウには何度かの深呼吸の後に好きだと伝えた。シドウは分かったと言った。受け止めたから、とも言った。好意が一般的でない事については「少数派がダメなわけじゃ無いよ」と言った。

僕はその言葉に、擦り切れていた心が温かく癒えるのを感じた。難しくて解けないと思えた問題が案外簡単な答えだった時のように、何度も想像したシドウの言葉は呆気ないと言えるほど明快なもので、そこには僕のいじけた想像が入り込む余白など無かった。差し出されたシドウの答えに「あっ」と声を出しそうになったが、その前に僕は新築の匂いを感じながら泣いていた。

 

それ以来僕はシドウの言葉に長く助けられてきたと思う。それは息苦しさを感じた時の心の拠り所であり、その意味でシドウの言葉は僕にとって宗教のようであった。

好きな人からの言葉は大きい。小さな宗教になるほどに。反対にもし汚い言葉で拒絶されていたら、僕は今どうなっていただろうか。

  

 

先日テレビ番組でセクシャルマイノリティへの差別的な表現があったとして、テレビ局の偉い人が謝罪したニュースがあった。

僕はその番組自体についてより、そのニュースに付いたネットのコメントの方に衝撃を受けた。

そこには僕がかつて恐れながら想像した、シドウからの拒絶や嫌悪があったからだ。僕の想像を遥かに超えたパターンで表現される嫌悪、こうやって差別が生まれるんだなという身勝手な理屈がそこに満ちていた。そしてそれらに共通しているのは、マジョリティがマジョリティである事を疑わない傲慢さであった。

僕は多分、その傲慢さを憎んでいる。認めたらいけない憎しみを、憎むことで生まれるマジョリティのような傲慢さを、僕は僕の中に見つけている。忘れかけていた小さな宗教を久しぶりに思い出した。