愛しさと切なさとエスプレッソ

パンとマンションが好きな人のブログ

ドリームドリーム叶え

文章を書くのが上手な人がいる。僕は彼の書くブログのファンで、その更新を楽しみにしている。

上手な文章ってリズムが良かったり言葉のチョイスが素敵だったり例えが的確だったりするけれど、彼の文章はそれに加えて感情表現が赤裸々なのだ。こんな事書いて良いのかなという迷いが無い(ように見える)文章。自分の気持ちを取り出して、それを削ぎ落として文章にするのって結構きついと思う。だって向き合うのが辛い気持ちってあるじゃんね。彼の文章を読んで、想像して、勝手に共感して。そして見たくなかった自分の気持ちに気づいてハッとする。

 

兄が文章を書いているらしい。小説?と聞くと小説ではないとの事。よく知らないが、色んな分野があるようだ。兄の文章は前編と後編とで分かれていて、僕が兄の家に遊びに行った時には前編を書き終えたところだった。聞くと前編だけでかなりの分量だった。ちょっと読んでみたい気持ちもあったけど止めておいた。こういうのは身内にだけは見せたくない事が多いからだ。

兄の家には前編を書くのに必要なもの、世界地図だったり草原や動物の写真が置いてあった。僕はそれを見て「偉いねー、すごいねー」と一通り感嘆し、「頑張ってねー」と家を出た。僕は兄のそれを応援したい。

兄は以前にも文章を書いていた。そしてそれを僕に見せた事があった。僕はまだ小学1年くらいだったと思う。そうなると兄は小学5年くらいだ。せっかく見せてくれたのに義務教育が始まったばかりの僕には識字の問題と、元来の根気の問題とできちんと読む事は出来なかった。束ねられた原稿用紙に連なる文字。兄の書くカタカナは細くて歪な形をしていた事だけ覚えている。

兄はその後文章を書かなくなった。他に夢中になる事ができたのだ。それはバスケだったり演劇だったり音楽だったり。進学する度に何か夢中になるものを見つけていた。

 

僕には姉がいる。兄より2つ年上だ。

姉は大学の進学を推薦で決めた後、ダンスに熱中した。姉からはダンスの話を聞く事はあっても、大学の話を聞いた事は殆ど無い。テレビで武富士のCMが流れると「これ踊れるよ!」と宣言し、大して広くもないリビングで踊り始めたりした。

姉はダンスに当時の全てを注いでいたように思う。ダンス>>>バイト>>大学といったところだろうか。ダンスのレッスン中はお腹が空くけど、お金が無いから一番安くてカロリーが高いあんドーナツをよく食べていたらしい。

その後姉は就職した。火災保険の会社だったと思う。しかしダンサーになる夢を追いかけて退職し、母と揉めに揉めた末テーマパークのダンサーになった。ちなみに火災保険の会社はそのすぐ後に倒産した。

 

テーマパークで踊る姉を両親と見に行った事がある。ちびっ子が集まるテーマパークにおじさん(父)おばさん(母)高校生(僕)の3人は浮いていた。姉の出るショーではキャラがピンチになると客席のドリームパワーでキャラを助ける設定があった。進行役のお姉さんの「ドリームドリーム叶え!」の掛け声に続き客席のちびっこが「ドリームドリーム叶え!」と声を出すものである。やや歳を取りすぎている僕たち3人も「ドリームドリーム叶え!」と遠慮がちに声を出した。するとキティはピンチを脱し、会場はドリームパワーとやらで満ちた。

ドリームパワーのお陰なのか、姉はその後もっと大きなテーマパークに移り、夢の国の住人になった。「夢は叶うし、好きは仕事になる」という強い成功体験により、好きでも無い事で働くのが苦痛で仕方が無い、というのが現在の姉である。

 

上の2人の兄姉を見て育った僕は、2人のように熱中するものをいずれ見つけると思っていた。しかし、見つけられなかった。僕は2人の真摯な熱中とは程遠い「手を抜きながらもそれなりに上手くやる」事ばかり考え、ふんわりとその場しのぎをするためのテクニックを身につけた。それは便利ではあるけれど、僕の何かを満足させる事は決して無く、むしろ自分が空っぽである事を気付かせた。

 

 

「生産性がない」という言葉について考えている。

数日考えていたけれど全然分からなかった。もしも子供を産まないことに対して生産性が無いと言っているなら、未婚で子供のいない兄と姉も生産性が無い事になる。それは自分が言われるよりも悲しい。なぜなら兄と姉は空っぽではないからだ。「生産性」なんて人を切り捨てるような言葉を使って、僕が尊敬して愛している人の価値を測って欲しくは無い。

こういった言葉を今まで何度か目にするたび、耳にするたびに対処の仕方を身につけてしまった。気にしないポーズも上手に出来るようになってしまった。その場しのぎのテクニックはこういう時も、悲しいくらいに役に立つ。