愛しさと切なさとエスプレッソ

パンとマンションが好きな人のブログ

凍結

年末年始に実家に帰省していた。

帰省の際、実家に柿の種を持って行った。おかき屋で売っていた柿の種。ぷくっとふくれた柿の種は軽い歯ざわりで後をひく美味しさ。四角いプラスチックのボトルに入った柿の種は恐らく正味500gくらい。これなら長く楽しめるだろうと思った。

実家に着いてトランクから柿の種を出すと、父は渡す前から手を伸ばして来た。遠慮がちでテンションの低い父からするとこの行動は珍しい。想像よりも気に入ってくれたようだった。

晦日の朝に到着し、夕方には柿の種は半分になっていた。このペースだと元日には無くなっているだろう。

 

父の朝は早い。元日の早朝に音がするので目を覚ますと、父が洗濯機を回してお風呂場を掃除しているのだった。お風呂場の排水部は磨かれ、髪の毛をキャッチする部品はカビが生えないように伏せて乾燥させている。姉が連れて来た犬には朝食を与え、朝の雑煮の準備をしている。

これは正月だから、と言うわけではない。父の毎朝のルーティンである。

 

父のルーティンには犬の餌やりがあった。が、実家で飼っていた犬は去年死んでしまった。18年も生きたから大往生だったと思う。

昨年僕が実家に帰った時には、餌は柔らかく練ったものを少量食べるだけだったし、目は見えないようでテーブルの足にぶつかっていたし、耳も聞こえないみたいで名前を呼んでも耳は垂れたまま反応しなかった。一緒に寝ると布団の中で死んでいないか心配だったし、その弱い呼吸をお腹の動きで確かめて、死んでいない事を確認した。寝たままなかなか起きない事もよくあったし、起きてもすぐ寝てしまう事が多かった。時々起こしてトイレに連れて行くと、時間をかけて寝ぼけた様子で排泄した。上手にできたね、と褒めてやる。偉いね、と褒めてやる。出来る事がどんどん減っていくから、排泄が出来ただけで大げさに褒めた。見えなくて聞こえなくて、すこし怯えたようなその顔をのぞいても、目の奥は白くなっていて僕の姿を捉えない。だけど相変わらず、非常にかわいかった。

東京に戻ってしばらくして、犬が死んだと知らせがあった。僕は悲しいよりもホッとした。長く生きて頑張ったね、偉いね。上手にトイレが出来た時みたいに褒めてやりたい気持ちだった。近くで世話をしていた父と母も僕と近い気持ちだったのではないだろうか。それに今にも消えそうな命が近くにあって、心がジリジリする方が怖かった。

 

年始は実家でゆっくりした。庭で炭に火を移して肉を焼いたり、おせちを食べたり、車でイオンに出かけたりした。海で綺麗な石を拾って帰り、石焼き芋を作ったりした。

東京に戻る日、新幹線の切符は早朝でしか指定が取れなかった。僕は在来線の最寄り駅まで父に車で送ってもらった。早朝とはいえ、父なら普段通りの起床時間だった。送ってもらおうと準備をして外に出ると、父はなにやら困った様子。「ちょっと待っていて」と父が家に入ると、お湯を持って戻って来た。窓ガラスが凍っていたのだ。

お湯をかけて視界は少し良くなったが、まだ凍結により曇っているところが多かった。駅は近いけれど、少し心配だった。

車に乗り、フロントガラスに暖房を当てる。ワイパーを動かすと凍結したガラスがジャリジャリと鳴った。夜明けが遅い西日本の朝は東京よりも暗い。

車中で父と2人。僕は小学生の頃に父と散歩した事を思い出した。日曜の朝に学校の近くまで散歩して、学校の前の売店に入った。お店にはドライヤーの熱で書いた文字が膨らむペンが売っていた。僕はそのペンを父にねだった。母なら「無駄遣い」で一蹴するものを、父なら買ってくれるのを僕は知っていた。そうやってこっそり甘やかしてくれる感じが僕はとても好きだった。

 

駅に着いて電車を待っていると、父がロータリーに停めた車の窓の凍結をタオルで拭いているのが見えた。僕は父に無事に帰って欲しいなと思う。

電車がもうすぐ到着する頃、父は窓ガラスを拭くのをやめた。そして僕の待っているホームに近づいて来た。寒いから見送りなんていいのに。間も無く電車がホームに止まって、僕と父とを遮る形で停車した。電車に乗ると窓から父の姿が見えた。35歳の僕と、70歳の父。気づけば僕は、父が僕の父となった歳になっていた。父と子という関係は膨らむペンをねだった頃と変わっていないけれど、2人はすっかりおじさんとおじいさんであった。窓を挟んで手を振り合うと、電車はゆっくり発車した。朝の5時58分だった。僕はまた柿の種をお土産に遊びに行こうと思う。

 

いつか僕は、老いていく父に対して心をジリジリさせるだろう。想像するだけで僕は恐ろしさに耐えられない。その後にやって来る喪失に耐えられる自信がない。死にたいと思った時に現れては繋ぎ止めてくれる存在が、減っていくのに耐えられない。