愛しさと切なさとエスプレッソ

パンとマンションが好きな人のブログ

カメラ

小学4年の時の担任はしばしば授業中に話が脱線し、僕はその話が好きだった。

しかし好きであったのに先生が何の話をしていたのかほとんど覚えていない。僕は単に勉強をしたくなかっただけなのかも知れない。

ただ、シャッターボタンを押すだけで写真が撮れるカメラの事を「バカチョンカメラ」と呼ぶ事、バカチョンの意味を先生から聞いた事だけは鮮明に覚えている。正直知りたくなかったなと思った。会った事もない人を国籍だけで軽んじる言葉が広く通じている事の衝撃。僕は韓国の人と会う時にバカチョンという言葉を思い出すだろう。そうして偏ってしまった先入観は、いつか言動を伴って差別となるだろう。教師のその言葉の響きはまるで植え付けられたかのように僕の心にある。

 

新型コロナウィルスの感染の拡がりに対する政府の対応は常にマイノリティに厳しいものだったと思う。というより、以前からマイノリティを救う気持ちなんて無かったのがコロナ対応でよく見えるようになったと言える。マイノリティの彼らが、彼らの当然の権利を主張する度に反対の意見がたくさん出るのも恐ろしかった。誰かの権利を保証すると自分が損すると思っている、そんな病気の人がゾッとするほどたくさんいるのだ。一体彼らはどんな立場から反対しているのだろうと思う。細分化すればもはや殆どの人が何かしらのマイノリティと言えるのに。つまりマイノリティの権利を守ることは、やがて自分の権利が保証される事だと思うのに。

 

「ゲイに生まれて良かった」と言う人を時々見かける。大抵の場合「面白い人にたくさん出会えた」とか「普段出会えない人に出会えて交流が広まった」なんて理由が挙げられる。ただ、自分の周りの人間関係に素直に感謝できる人は環境が変わっても同じことを言うんじゃないかと思っている。僕は自分の人間関係に満足しているものの、ゲイで良かったとは思わない。モヤモヤと余計なことを考えなくて済む生き方があるならそれがいい。

「(LGBTに対して)差別は無いと思う。だって楽しいから」と、女装しているだけなのにまるで文化人のようにコメントを寄せる人(マツコではない)が以前言っていた。差別を持ち前の明るさで跳ね返したという意味で言ったのだと思うが、やや乱暴な意見だと思った。当事者が「差別が無い」と言ってしまうのは、苦しんでる最中の人の口を塞いではしまわないかと。

僕が(その面で)当事者で唯一良かったことはマイノリティである経験ができた事だと思う。コロナ対応で頻発した国による直球の差別は、日常にある「そういうものだから」で見過ごされてしまっている差別は、かつて経験した居心地の悪さを思い出させる。僕はやがて自分も傷つけるそういったものに、注意ぶかくありたいと思う。